知的生産の技術 9:日記と記録
知的生産の技術
何度目かの再読中のこの本『梅棹忠夫 知的生産の技術』。言わずと知れた名著。
現在出版されているLifeHack系の源泉にあたるのかと思われる本。
1969年初版の岩波新書。親父も読んでいたのをよく憶えている。なぜなら、岩波新書は緑の本でランプのしるし。黄色と赤もあったような・・・
読書が苦手でも「岩波=文字小さい」でも腰が引ける必要はない。
自分の興味ある章を読めば良し。都度都度で読み返せば良し。但し、読み捨てはもったいなさすぎる。
梅棹さんなので、語り口は滑らかさは保証済み。ツール類は進化しているので鵜呑みする必要はないが、内容は本質を掴んでいるので古臭くはない。って言うか、気付くことは多いし、やるべきことも明確。
- 作者: 梅棹忠夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1969/07/21
- メディア: 新書
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前置きが長くなったが、「9:日記と記録」について。ブログの流れからいくと「6:読書」なんだけれど、まだ自分の中で咀嚼しきれていないので、先にこっちを残しておく。
日記に技法が必要か?
日記というものは、時間を異にした「自分」という「他人」との文通である、とかんがえておいたほうがいい。(P162)
自分の為に書く日記に技法や形式が必要なのか?以下の2点で必要とのこと。
(1)自分はえらくない
技法、形式を研究し(=いろんな工夫を重ねて)、時に自分をなだめすかしつつ、あるいは励ますことで書き続けることができる。何もなしに意味ある日記が書き続けられるほど、自分はえらくない。
(2)「自分」は「他人」になる
「自分」というものは、時間が経つとともに「他人」となる。なので、形式や技法を無視していると、すぐに何のことが書いてあるか、自分でもわからなくなってしまう。
"日記とは、時間を異にした「自分」という「他人」との文通。" → なので、手紙に形式があるように、日記にも形式が必要だろ。
日記は魂の記録?
日記というのは、要するに日づけ順の経験の記録のことであって、その経験が内的なものであろうと外的なものであろうと、それは問題ではない。(P163)
日記は心のなかのこと(内面の記録)を書くものなのか?
これは誤解。教科書などで紹介されている日記が内面の記録か魂の成長の記録であるため、日記=文学として考えてしまっている。もちろん、文学的な日記も必要であるが、全ての日記が文学である必要はない。
業務報告
日記は、自分自身のための、業務報告なのである。(P165)
後から読み返してみて感傷にふけるだけではなく、事実を確かめるために見るという効能が大きい。
自分自身に向かって提出する毎日の経験報告と考えればよい。
記憶せずに記録する → キラーフレーズ!
ものごとは、記憶せずに記録する。はじめから、記憶しようという努力はあきらめて、なるだけこまめに記録をとることに努力する。これは、科学者とはかぎらず、知的生産にたずさわるものの、基本的な心得であろう。(P170)
もちろん記録はその場での記録。
記憶というものは、あてにならない。時間と共に色あせ・変形・分解・消滅してゆく。
なので記憶の上にたって、精密な知的作業を行うことは不可能に近い。
記録という作業は、記憶の欠陥を補うためのもの。
ものごとは。記憶せずに記録する。
すべての経験は進歩の材料
自分自身の経験の記録を、着実につくってゆこうというのは、資料の蓄積ということのもつ効果を信じているからにほかならない。〜中略〜人生をあゆんでゆくうえで、すべての経験は進歩の材料である。
技術の開発と発展(→自分自身の成長)のためには成果よりも、それにいたるまでの経過の記録と、その分析が大事。
書き残しておいてくれないと、成果だけでは後になったらわからない。
前の経験を吟味して、その上にたって、新しい経験を継ぎ足してゆく。
これが、自分の経験を記録(日記)として残す意味。
なるほど
記憶は時間とともに薄れていくもの。自分もまた、時間とともに他人となっていく。
ならば記憶せずに記録をとり、他人となった自分にその記録をバトンする。
現在の自分は過去の自分から受け取ったバトンを基に、進んでゆくと。